top | project | critica=critico 杉田敦×竹内万里子
不覚にも

杉田敦


カエターノのライヴ、友人が席を替わってくれたおかげで、とてもいい席で見れました。バタバタと席を移動して着席。すごい、ここよく見えるじゃない!暗転。一曲目"Minha Voz, Minha Vida"と、考える間もない事の進行に、不覚にも一曲目から涙が止まりませんでした。コンサートがはねてから、池袋の大衆酒場、豊田屋で、レモンハイを飲みながら、まだこんなに感動できるんだとわれながら驚きました。きっと、写真やアートに対しても、そうした感情は残っているはず。



返事が遅れたのは、予告した展覧会のうち、森美術館を見てからにしようと思ったためです。期待していたエイヤ=リサ・アハティラは、全作品が1スクリーン・ヴァージョンでDVD化されているためか、ちょっと期待はずれでした。2スクリーン・ヴァージョンの"consolation service"も、唯一、そのまままのかたちでDVD化されているし。期待が大きかっただけにちょっと拍子抜けです。グレゴリー・クリュードソンも悪くなかったけど、映像作品の狭間で観ると、作品の内容からして少し分が悪いようにも思えました。



アートフェアに関しては、僕も同じような苦手意識があります。なんとも言いがたい、居心地の悪さ。きっとそれは、竹内さんが書いてくださったようなことなのだと思います。ひょっとすると竹内さんはもうアルルに旅立っているのかな。帰国されたら、ぜひ、写真祭の様子をお聞かせください。今年は、ヴェニスは石内さんですね。石内さんの"Mothers"は、お母様がなくなられた直後、発表の予定はないけど、何となく撮っているのと語られていたことを思い出します。当初は、石内さんの中では異質な、小ぶりな作品としてまとまるのかと思われましたが、時が経つにつれてその存在感が増していっているように思えます。こういうこともあるのですね。



とりとめがないことを書き記しました。テクストにすると、その途端自分の発した言葉であると同時に、よそよそしさというか、不可触な感じもします。それが、いいかたちに膨らんでいくことを願って。


2005.06.06





あたりまえのこと

竹内万里子


さてカエターノ・ヴェローゾのコンサートは如何でしたか。ちょうど来日していることを知らずに彼のアルバムを聴いたところだったので、少し驚きました。

しかしカエターノの歌を、自分なりに受け止められるようになったのは、恥ずかしながらここ数年のことです。きっかけは、ある映画の中で、彼が「ククルクク・パロマ」を唄うシーンでした。それが何の映画だったのか、ナンニ・モレッティの「息子の部屋」だと思い込んでいたのですが、改めて調べてみたら、ペドロ・アルモドバルの「トーク・トゥー・ハー」だったということに気づきました。これまたとんでもない勘違いをしていたようです。

しかし、そのような勘違いをしていたということに、おかしさを超えて、不思議なつながりを覚えます。人の生へ亀裂を生じさせてしまう、どうしようもない喪失。もはやそれを喪失と呼ぶことすらためらわれるほど埋めようのない穴と、「にもかかわらず」過ぎゆく生との間で、引き裂かれながら佇む人間が、この二つの映画には登場します。じつは、そのどうしようもない喪失すら「あたりまえ」であってしまうということ、それこそがもっとも残酷な事実なのですが、この二つの映画はそうした生の根本的な残酷さに触れているという点で、互いにそう遠くはないでしょう。

そのような生への哀しみとカエターノの歌との関係、それもまたとても興味があることなのですが、話があまりにもふくらんでしまいそうなので(そもそも私の手にはとても負えないので)やめておきます。

「あたりまえ」のこと、これが生きる上でも表す上でも、もっとも難しいことではないかと思います。杉田さんがおっしゃるように、食べ、飲み、語らい、聞くこと、そうした日々の経験と、ギャラリーや美術館で作品を見るという経験は、人がそこにいる限り(つまり、ありえない純粋主義を信奉しない限りは)、互いに異質なものでありながらもどこかでつながらないはずがありません。むしろそうやって私たちは日々、街を歩き、作品を見て、喉が渇くという経験を繰り返しているわけですから。

作品を見るという経験は、いってみれば、異質なものと出会うという経験であって、その意味ではたしかに特別なことかもしれません。しかし、そのような異質なもの(「理解できないもの」あるいは「役に立たないもの」とすら呼んでいいかもしれませんが)と出会い、それを何らかの形で受け入れる(あるいは亀裂を残す)ということは、あたりまえにおこなわれていい。むしろそうあるべきです。それはなんら特別なことでも「格好いい」ことですらもないと私は思います。

私がしばしば海外の写真祭へ行くのは、ただ海外が好きだとか日本から脱出したいとかいうわけではなく(いや、そうでないともあながち言い切れませんが)、食べ、飲み、語らい、聞く、という(あたりまえの)経験をひとつひとつ、改めて確認しながら、その中で作品をゆっくりと見たいがためでもあります(その点、アートフェアはどうも苦手です)。ですからもちろん、フェスティバルの必須条件は、美味しいお酒と食事と音楽があること。その点、アルルの写真祭は30年以上続いているだけあって、その条件を充分に満たしているといえます(しかも出版社Actes Sudの書店まである)。ただし、音に関しては少々さびしい環境かもしれません。あまりにも観光化されてしまったせいでしょうか。

まあ、こうしたフェスティバルもまた作られた環境であることに変わりはありませんし、存立基盤としてのマーケットの問題についても考えるべきことは多々あります。しかしいずれにせよ、自分の手で何かを変えていかなければ、私たちはあたりまえのことすら手に入れられないのでしょう。それは結局、「今ここ」を受け入れることにつながってゆくはずなのですが。


2005.05.31