top | project | critica=critico 杉田敦×竹内万里子
少し時間を経て

杉田敦


ちょっと時間がたちすぎちゃったけど(年も変わちゃたし)、横浜トリエンナーレについて、前回の竹内さんの意見を引き受けて少し。

僕の周囲では、結構意見は二分されていました。僕自身は、結構楽しめたのだけど、それなりに不満も残った。竹内さんが書いていたように、表現を契機として開示されるものと言う意味では、今回は全体的にそれが薄かったように思う。ざらざらした感じは嫌いではなかったけれども、それでも、軽やかな身振りが最終的にアート内部の業界へと回帰するような気持ち悪さを感じたのも事実でした。これを単に批判ととられるとまずいのだけど、ずいぶん楽しんだし、考えさせられる作家もいたのだけど、でも今のような感想をぬぐいきれなかった。ひとたびそういう意識が芽生えてしまうと、こんどは逆に、フィニッシュの精度の荒さも作為にしか見えず、アジアの作家に多い日常のこまごまとしたものを詰め込む類の作家たちも、どうもオリエンタリズム的な視点で悪態をつきたくなってしまうというのが正直なところだった。これは微妙なところで、ちょっとした断片の印象が、全体を左右するものでもあると思う。ただ、どちらかと言うと今回は、表面的にはざらざらしつつも、何か統御されたような感をぬぐえず、結局なんとなく読後感として、しばらく時間がたった今、洗練されたフィニッシュの個展と同じような印象の中に納まってしまっている。

今年は、マニフェスタがキプロスであります。ギリシアのすぐ南かなと思っていたのに、あらためてみてみるとレバノン沖といった感じ。行けたら行こうと思うのだけど、前回のサン・セバスチャンといい、ずいぶん過激なとこばかり。ただ、こうした場所で見てみると、PCと呼ばれるものも、いつも以上に慎重になっているのがおもしろい。でもそれって当たりまえだし、それこそがスタート地点だったはずなのに。やっぱり、様式化する過程でぬるくなるのかな?

今回は、ゆるめに、校正もせずにUP!


2006.01.20





開発すること

竹内万里子


横浜トリエンナーレは玉石混交、それはそれで今日の社会の良い面も悪い面も反映していたように思いました。ただ改めて思ったのは、「現代美術」なり「アート」というフレームに甘えた作品が多いということ。そのフレーム自体はなんら否定すべきものではありませんが、それをただ鵜呑みにし、自己の行為に対する真摯な批判を欠いた作品が多いように思えたことは、やはり残念なことでもありました。

私は、芸術なりアートというものは、ある意味で、美術館やギャラリーを出た後に始まるものだと思っています。たとえば、ある日空港でふと目の前の光景がフィシリ&ヴァイスのエアポートの写真に重なってしまうということ。あるいは、夕暮れの空に羽ばたく鳥の群れを目にして、深瀬の「烏」を思わずそこに見いだしてしまうこと。それは、ただ「似ている」から作品を思い出すというような単純な問題ではありません。そのとき起きているのは、作品という引き金によって、世界が潜在的にもつ無数の「質」のひとつに初めて立ち会うという事態なのです。逆にいえば、作品がなければそのような世界の「質」に立ち会うことができなかったかもしれないといえます。

少々乱暴な物言いをしてしまいましたが、要するに重要なのは、作品それ自体ではなく、それが開示する世界の「質」のほうだと私は思っています。したがってそれを開示するのは必ずしも「アート」である必要はない。私たちはそれぞれ、世界の新たな質を見いだすための方法を自分自身で開発すべきなのです。それを「アート」と呼ぼうと、「政治」と呼ぼうと、「哲学」と呼ぼうと、あるいは何ら名前を与えられないとしても、構うことはない。そのことを、私たちはどれだけ深く自覚できているのでしょうか。


2005.12.02