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断片

杉田敦


まったく時間が空いてしまいました。この間、近美のオープニングでお会いしましたね。次号のBTに展評が載ります。またお会いした折にご意見をお聞かせください。また、春ぐらいに、以前お話していた、写真についての鼎談というかラウンドテーブルのようなものを、近美の増田さんを交えて行えればと考えています。それについても、ご相談させてください。このような本来私信でご連絡すべきことをオープンにお伝えするのは、そうすることで怠惰な状態から抜け出すことができればと考えてのものだとご理解いただければと思います。



手前味噌になりますが、11月にart & river bankで開催した小山陽子の"she, sheep"は、実に面白い展覧会だったと思います。竹内さんにもぜひ見てもらいたかったです。こうした若い作家にはもちろん不勉強な部分も少なくないのですが、それを補ってあまりある大胆さがあります。しかし、そういう部分は脆いものです。確かに、興味深いものはもう少しボリュームを見てみたいとも思うのですが、そう要求することが、むしろ大胆さを奪うことにもなりかねません。このタイプのもののボリュームをそろえてみれば、と言うような安直な助言をすることは当然はばかられます。



近美の展示に戻りましょう。僕はあそこで、結構無防備な姿勢で参加していた伊奈英次について考えさせられました。その姿勢を、若い作家のいろいろな試行錯誤と分け隔てるものは何なのか。つまり、人生のある一定の生物学的年齢を想定して、その時期の活動に特別なレッテル(賞)を与えることの意味とは何なのか。と言うことです。あまり余分な条件を抜きにして、瑞々しい試みをただ面白いと素直に語れることを忘れてはならないと言うことでしょうか。



まったく取り留めなくてすみません。でも、こんな感じでこの年が終わりそうです。つい数日前に、大学の学生たちと企画した下町の商店街での展覧会が終わりました。いろいろ考えさせられ、そして学ぶことも多く、そしてとても楽しい展覧会でした。その余韻が、収拾つかないものをそのまま記してもいいと勧めてくれているような気がします。


2006.12.13



たどり着く家

竹内万里子


マニフェスタ6の中止については、両者の話し合いの場が法廷へと移されたということをホームページで読みましたが、その後の動きは把握できていません。ですから何かを知ったかのように話すことはもちろん許されないのですが、あえて直感的な物言いをするならば、「アート」が思い描いていた「現実」はそんなものでない、はるかに根深い脅威なのだとということを、改めて思い知らせる出来事であったようにも思います。信じること、想像すること、問いかけること、そうした小さな抵抗が、利用する/される以前に、その指先の一振りで吹き飛んでしまうような。

先日、戦時中の写真雑誌を少しまとめて見る機会があり、戦時色がどれほど濃くなろうともアマチュア層の投稿写真がほとんど変わることがなく奨励され続けられていたことに今さらながら驚きを覚えました。何もなかったかのように(いや何かがあったからだということもできるかもしれませんが)、延々と繰り返される穏やかな生活の記録や表現への憧れ。その隣には明らかにそれとわかるプロパガンダ記事が並んでいる。ここで責任の所在を云々する気はありませんが、ただそのような行為が今日もなお表情を変えることなく続けられ、奨励され、「良いこと」とされている(もちろん経済的に社会を支えてもいる)ことに、写真をめぐるあらゆる問題の根深さを痛感します。基本的な構造は今も昔も変わらないわけです。

杉田さんがおっしゃるように、忍耐深くあること、忍耐深く家へたどり着くことの重要性、そして自分がその忍耐強さの一端ももち得ていないことを深く実感します。そうである限り、自分の言葉もまた一部の無邪気な写真たちと同じように、時代の力に加担してしまうでしょう。ただし私は、たどり着くべき家、それすらまだ手にしていないのかもしれません。


2006.10.23