路地奥で
杉田敦 先日、障害者プロレス”Dog Legs”を観にいきました。身体の障害や、知能の障害を持つ人と、健常者が闘うというものですが、字面から伝わるイメージとは裏腹に、最初から抱腹絶倒で、そしてそれ以上にさわやかな感動に包まれました。 メインイヴェントは、この日を最後に引退する女子レスラー”ジャイアント馬場子”。「ひとりでリングに上がれない!」、「ひとりでリング上で動けない!」リングアナの容赦のない紹介を受けて、リング上のスポットの中で蠢く馬場子。まるでそれは、アナ・ガスケルの少女のようにも見えなくはなく、気高ささえ感じさせるものでした。そんな馬場子は、対戦相手、愛人ラマンの足を口に受けたままギブアップ。観客は、大いに笑い、感動し、そして静まり返りました。 僕は正直、このときのリング上の馬場子を、大野一雄の生み出すものよりも美しいと感じました。見えるままの姿でそこに存在し、ストレートな反応に包まれる。これほどかけがえのない瞬間があるだろうかと思いました。不自由に対する嘲笑も、慈愛も、生きていることの醜悪さも高貴さも、すべてがそこに等価なものとしてあるように感じたのです。そしてそのとき、自分たちの生きている世界が、暗黙のうちに障害者と健常者に強いているものを感じさせられました。会場を後にして、下北沢の路地奥の飲み屋で飲みながら、知らず知らずのうちに世界に浸透している、不愉快な力学にしたがっている自身をあらためて知らされることになったのです。そしてそうしたポリティクスに対して鈍感なことを……。 もちろんそのときリング上にあったものが、自分の周囲の表現をめぐる関係の中にあるのかということも自問せざるを得ませんでした。種々の権威におもねようとするものたちや、力関係の中で臆して本心を語れないものたちばかりが蠢く世界。数時間前目にした光景と比較すると、あまりにもそれは醜悪なものでしかありません。けれども、Dog Legs がそれ以上に困難な状況から立ち上がったように、もちろんそうだからこそすべきことがあるはずだと、アルコールと路地奥の闇が、鼓舞しているように思えました。 2005.10.24 9月は 竹内万里子 中国奥地へ行ってきました。山西省の平遙というところで中国最大の写真祭が開かれたのです。写真を見るということ、見せるということ、あるいは作品の取り扱いということも含めて、いわば野ざらし状態のかなりワイルドな現場でした。しかし具体的に何がどうということよりも、目に見えない重い力の渦に自分が巻き込まれているという底なしの恐怖がひたひたと満ちてくるというのでしょうか、自分もまた川に向かって盲目的に突進するレミングの群れの一員であるという事実を否応なく突きつけられる、そんな貴重な体験となりました。 たしかに力学ないしポリティクスとは基本的に目に見えないものですが、そうやって、ときに自分を取り巻く巨大なポリティクスが異様なまでに目に見える、あるいは身体に影響を及ぼしてくる、ということがあります。私たちは日頃あまりにも、そうした目に見えないもの、ポリティクスに対する想像力(知力)を欠如していると思うのです。それは政治、文化、その他あらゆるものにおいて同様にいえると思います。 アスベストの問題がなぜ今になってここまで深刻化し浮上するのかということも、その問題と無縁ではないでしょう。非常に細く強度のあるこの天然の鉱物繊維は、かつては皮肉にも「奇跡の鉱物」と呼ばれて様々な用途に使われてきました。アスベストという言葉は「永遠不滅の」とか「消せない」という意味のギリシャ語に由来しているそうですが、実際、それがいったん飛散してしまえば、それは吸い込んでも潜伏期間が非常に長く、また自然界ではほとんど分解することがありません。目に見えなければ関係がない、あるいは存在しないものであるとみなしてきた大きなつけが、今になってまわってきているわけです。それはもはや、アスベストだけの問題ではないのですが――。 2005.10.07 |