アスベスト
杉田敦 この返答が前回の竹内さんのメールに対する答えになっていないとしたら、先日会ったときに実際に話してしまったからでしょうね。まあそういう、伏せられている部分があるのも面白い気がします。戦争を巡る表現の問題について、少し辛辣な話もしましたね。 ・ ところで、僕の周囲では現在、社会的問題にもなっているアスベストが大きな関心事になっています。art& river bank を含め、古いビルのリノヴェーションは、地価の高い都市部では、ギャラリーやスタジオなど、スペースを確保する上で有効な方法のひとつです。このとき、どちらのスペースも、天井高を確保するために、天井を抜くのが一般的な方法となっています。ところが、古いビルの場合、かなりの確立で天井裏に石綿の吹きつけが行われているのです。僕の友人の写真家Iがスタジオを作ったとき、まだアスベストは大きな問題になっておらず、もうもうと立ち込める煙の中で、業者と一緒に撤去作業をしたそうです。現在では、撤去費用はリノヴェーションのメリットのひとつであるコストの問題を台無しにする程になるらしく、十分な資金のない人たちにとって大きな障害のひとつになっています。京橋のとあるギャラリーも移転先でこの問題に直面しています。また、恒常的に運営されるスペース以外に、テンポラリーで空きスペースでイヴェントを行うような場合にも、障害になるということが考えられます。いろいろ面白い活動が散見されるようになってきた状況に水をさすことにならなければよいのですが。 ・ 夏は、いくつかのイヴェントを行うだけで、あっという間に過ぎようとしています。このあと集中講義で京都に行きます。知人の展覧会もいくつかあり、向こうで少しゆっくりできればと勝手に考えていますが、どうなることやら。ところで、お会いした際にはお伝えできませんでしたが、また年末にファイル展を行います。今年もぜひセレクターとしてご参加いただきたくお願いいたします。では、こちらこそとりとめないご返事になってしまいましたが失礼します。 2005.08.25 寄り道だらけの 竹内万里子 長旅から帰りました。おかげでずいぶん元気に(のん気に?)なったような気がします。 杉田さんがおっしゃるように、なんらかの外部を意識することが「深み」の放棄に繋がりかねないということは、確かにありますね。ただし、アマチュアリズムは「わかりやすさ」と必ずしも結びつくものでないことも確かです。にもかかわらず、「わかりやすさ」とは外へ開かれること、すなわち善であり、その一方で「わかりにくい」ないし「わからない」ものは外に開かれていない、すなわち悪であるというような安易な認識が、少なからぬ場で目撃されることも確かです。 しかし本当にそうなのでしょうか。むしろ「わからない」ことから目を逸らすことなく、とりあえず、わからないまま引き受けてみること。そしてゆっくりと時間をかけてそれを生きること。外に開かれるとは、そういうことなんだと思いますし、アマチュアリズムというものもまたそうした精神的土壌から生まれるものなのではないかと思います。 つい話が逸れました(といっても「本題」はそもそもないのですが)。マドリッドでは、植田正治の回顧展を見てきました。自分がいつのまにかある種のクリシェによってこの写真家を「わかった」つもりになっていたことを痛感し、いろいろな発見を得ました。ベッヒャーの回顧展もちょうど行なわれていたのですが、これもまた目から鱗でした。それについてはまた今度。それからアルルの写真祭、ベネチア・ビエンナーレは共に、ある意味で優秀で、それなりによく出来ていたという印象ですが、逆にずばぬけた印象がなかったというのも事実。もっともフェスティバルにずばぬけた何かが必要か?という問題もありますが。 こうしてただつらつらと駄文を重ねてしまいそうなので、とりあえずこの辺にしておきます。また少しだけ、北のほうへ行ってきます。 2005.07.30 |