紡ぎ出される
杉田敦 先日の『写真を巡る討議』ではお世話になりました。竹内さんの提出したアーカイヴという視点、捉え方は三者三様だったような気もしますが、確定したものについて語り合うのではなく、いまだ形の定まらないものの処し方を模索するような討議は、スリリングな体験でとても刺激的でした。前回の critica=critico のエントリー、求心的、遠心的という視点もとてもユニーク、発展させるべきものであったにもかかわらず、放置したまま時間ばかりが過ぎてしまいました。申し訳ありません。ボンヤリとした印象なのですが、求心的、遠心的という視点がそのまま利用できるかどうかは定かではありませんが、ひょっとすると、アーカイヴという言い方の中にも、微妙な質的な差異があるのかもしれません。いわゆる、アーカイヴ・ビルダーまでを視野に入れた、欧米でのアーカイヴへの注目と、竹内さんや国立近代美術館の増田怜さんが指摘されるような、あくまで個人的な目的で集積されてきたものに対する、アーカイヴ的なアプローチとは、微妙に異なる面もあるのかもしれません。もちろん、共通点の方が勝るとしても、同時に、その差に対しても注意しておく必要があるのかもしれません。その結果、求心的、遠心的という視点とも呼応するようになるとおもしろいですね。何かが紡ぎ出されることもあるかもしれません。 ところで、今月末には、年に一度、little red decode という企画展をやらせてもらっている、Space Kobo & Tomo という銀座のスペースで、アーティストの吉原悠博さんの実家である、写真館の土蔵に眠っていた乾板とアルバムをベースとして編集した映像作品の展示が始まります。また、今秋には、art & river bank で、若手写真家で2005年度日本写真家協会新人賞受賞の森澤ケンさんが、やはり実家の写真館に遺された、祖父の写真を再プリントした作品の展示が予定されています。これら、アーカイヴ性がわかりやすく前面に出た展示は、きっとまた討議した内容に、疑義や深みを与えてくれることになるはずです。ぜひまた、こうした体験を踏まえて、お話させてください。 2007.04.16 求心的、遠心的 竹内万里子 杉田さんがBTに書かれた展評、とても興味深く拝読しました。複製技術としてではなく編集技術としての写真の読み直しというご指摘には、全く同感です。確かに、今日の日本における写真の特性について、各作家間の差異を含めて考えてみると、いろいろ面白いことに気づきます。たとえばご指摘になっていたように、クリュードソンやウォールらのようなある種の物語性を孕んだスペクタクルとして写真を定位する試みは(よりパーソナルな感覚を喚起するアンティルのような試みについても同様)、国内ではなかなかお目に掛かることがありません。問題なのはその善し悪しではなく、なぜこういう事態が生じているのかということだと思うのですが、それをただ欧米主導のマーケットの動向のせいだと片付けてしまうわけにもゆきません。 そんなことをつらつらと考えている時に、ちょうどレヴィ=ストロースの講義録を読んでいて、ある記述に思い当たるところがありました。日本の精神と西欧の精神の差異は、求心的運動と遠心的運動の対比ではないかというのです。たとえば日本の大工は鋸や鉋を使うとき、向こう側へ押すときではなく手前に引くときに切ったり削ったりしますね。これは欧米とは逆なのですが、それだけでなく、日本では様々な分野や様式においてつねに自分のほうへ引き戻す動き、つまり自己への回帰がみられるといいます。言い換えれば、西欧のようにもともと与えられた「自我」から出発するのではなく(「われ思う、ゆえに我あり」)、日本人にとって「自我」は到達できるかわからぬまま求められた結果として得られるものなのではないか、とレヴィ=ストロースは指摘しています。 それを詳細に検証するのは無論私の手に余りますが、しかしこの指摘は、日本における写真やアートの状況をめぐって常に自分が感じてきたことと確実につながるところがありました。少なくとも今、私たちの身のまわりを覆っているのは、世界に対して目を見開く「遠心的」なアティチュードよりも、いつかどこかで手に入れられるかもしれない「私」を期待した「求心的」なそれのほうが圧倒的に多い。はっきりと「自分探し」であることを自認する作品はもちろん、結局は「アート」の名を借りた「自分探し」であるような作品が、なぜこれほど多いのか。それがずっと気になってきました。このような事態を単なる風土やマーケットの問題へ還元することには個人的に興味を覚えませんが、これだけグローバリゼーションやらインターネットやらが跋扈し、「伝統」なり「蓄積」が忘却の彼方へ押しやられているようにみえる今だからこそ、よけいにどうしようもなく見えてしまう「差異」はやはりある。それは「弱さ」でもあり「強さ」にもなり得るのでしょうが。 2007.01.02 |