自省を忘れて
杉田敦 時間が空いてしまいました。本当は、すぐに返答しようと思っていたのですが、いろいろな理由でそれができないうちに、時間ばかりが過ぎてしまいました。しかし、時間が経ってみてから考えると、あのときすぐに返事しなくてよかったと思えるところもあります。だらだら過ごしていても、何かを学んでいるということなのかな? ・ 年末に出かけようと思っていたManifesta 6が中止になりました。美術学校という形態で行われるということ、それと最後の分断都市であるニコシア開催ということで期待が大きくなっていただけに残念です。最初聞いたときは、レバノン空爆が原因だと思ったのですがそうではなかったようです。ドクメンタ11で、ワリッド・ラードというレバノン出身のアーティストが、架空の資料でレバノン内戦の悲惨さと、メディアや歴史というものの欺瞞性を同時に暴いて見せたその場所で、空爆がつい先日まで続いていました。こうしたアクチュアルな問題を目の当たりにすると、PCという姿勢を様式としてではなく実践として身につけようとしていた現代美術も無力感に包まれざるをえません。けれども、もちろん大切なのは、その無力感に包まれ続けることではないはずです。たとえそれが正確な分析や判断によるものであっても、それでもそこから一歩も二歩も踏み出すべきであるはずです。 ・ 1日早く帰国したおかげで、テロによる空路の乱れに巻き込まれることはありませんでした。9.11の1年後、エール・フランスの乗務員がストを決行し、何にも知らずに飲んだくれていたため、空港で酷い目にあったことが思い出されます。今回の空港の混乱を伝えるニュースに登場するうんざりした旅行者の表情には同情とともに共感を覚えます。すべてを投げ出してしまいたくなっているはずです。それでも、彼らは忍耐強くそこで最善の道を探し、そしてやがて家に辿り着くはずです。彼や彼女が行っている忍耐や努力を、自身を含めてなんらかのかたちで表現する人間は見習うべきなのでしょう。無力感に包まれていることが、どれだけ怠惰なことなのか、うんざりする旅行者たちの表情は教えてくれているような気がします。 ・ いずれにしても行動すること、ということでしょうか。といっても、これだけ時間を空けてしまっておいて、言える言葉ではないのですが……。自省を忘れて、書き記します。 2006.08.17 見たくないもの 竹内万里子 杉田さんの指摘された意味においてこそ、「難解さ」と「わかりやすさ」はおそらく同等の資格をもつのでしょうね。なぜならそのどちらもが、「虚偽に満ちた共通意識の捏造」に容易に加担し得るものだからです。言い換えれば、難解であるから、あるいはわかりやすいからというだけの理由によっては、何事も評価されることもできなければ非難されることもできない。肝心なのはその「難解さ」なり「わかりやすさ」がどこへ向かうものであるかということだと私は思います。 人は見たいものしか見ようとしない。そして見たくないものは無視するか、よくてもせいぜい不快感を示すといったところです。おそらく今日の芸術が抱えている問題のひとつは、じつはその「見たくないもの」を見ないために自分が機能しているという事態に無自覚である(あるいはその事態をこそ無視している)という点にあるのではないでしょうか。そして、見たいものーーそれはせいぜい「私たちの夢」という名の虚偽か悪態にすぎない場合が多いわけですがーー、それを追うことがせいぜい芸術であると信じている。 しかし人が「見たくないもの」とは、そのような私たち自身の愚かさ加減のことなのではないでしょうか。とするならば、自分が素直に反応できる作品以上に、自分が抵抗を覚える作品や事態にこそより一層注意をを払うべきだと考えることもできるでしょう。といいつつも、私たちが本当に自らの愚かさ加減に、この醜態にしっかり目を見開くことができるかどうか、正直なところ甚だ心許ないのではありますが。 2006.05.20 |