top | project | critica=critico 杉田敦×竹内万里子
向こう側から

杉田敦


前回の竹内さんの指摘を興味深く読みました。僕は最近、おそらく同じことを反対側から考えています。よく学生などから聞かされる言葉に、現代美術の難解さというものがあります。しかし、この「難解さ」には、いくつもの問題が潜んでいるような気がしています。ひとつは、結局むしろ現代美術は、「難解さ」として容易に理解されるカテゴリーに堕しているという問題。そして、そうした実態と乖離した判断を下している人々が、そのこと自体を問おうとしていないということ。またもう1つは、そう口にする人たちが必ず付け加える、「誰にもわかるものを」という基準に忍び込んでいる、奇妙な多数性。結局、1人の判断では持ちこたえられずに、暗黙のうちに自身と同様に判断している多数の人を捏造してしまっているという問題。この最後の部分は、竹内さんの指摘と、表裏をなしているようにも思えます。独りよがりな独断性とともに、ある種の共同意識を捏造してしまうという脆弱性。この二面性があるのかもしれません。現代の表現に対して繰り返し用いられてきた難解さという便利なレッテルが、もしも同時にそうした虚偽に満ちた共通意識の捏造に加担しているのであれば、それこそ現代美術はまさに、そうしたレッテルを拭い去る努力をすべきです。けれども、だとすればこそ、それは「誰にもわかるもの」や「誰にも親しめるもの」という安易な分枝に向かうことではないはずです。


2006.04.13





一度に

竹内万里子


ひとつのことすらまともにできないというのに、いくつもの用を同時に抱えて右往左往しているうち、すっかり春めいた日々が来て、しばし呆然としています。

ところで昨今、自己責任とか自己決定論とかいう言葉がすっかり世間に定着しているようですね。このところ、そのことについて考えていました。他人に迷惑をかけなければ自分で決定してよい、責任をとればよい、という論理は、一見あまりにも正当なように思えますが、それは同時に、私たちを取り巻くより大きな構造に対する疑念を思考停止させてしまうものでもあります。それがとりわけネオ・リベラリズムの政治的戦略に都合のよい論理として利用されているという事態は、事の重大さに比べて適切に論じられていないように思います。

この問題は、もちろん狭義の政治だけにかかわるものではありません。日頃、作品を制作する方々と話をしている際に、「好きだから」という言葉をたびたび聞くことがあります。何かを好きだったり嫌いだったりすることはもちろん一向に構いませんが、じつはそのたびに、どこか歯がゆい思いを覚えます。好きだったら何をしてもいいのでしょうか。「芸術」だったらすべてが許されるのでしょうか。「好きだから」「面白いから」と言った途端に、見えなくなり、隠蔽されるもの。作品を見せるという行為には、「好き」以上の何かがつねに問われるはずです。それは「共同性」ではなく、むしろ共鳴性ないし共振性とでもいうべき、倫理的なまなざしに近い何かだろうと思います。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とレーニンは語りましたが、芸術がその「善意」から無縁であるなどと、いまさら誰が予言できるでしょうか。

2006.03.20