Date: 5月 20th, 2006
Cate: Mariko takeuchi

見たくないもの

竹内万里子

杉田さんの指摘された意味においてこそ、「難解さ」と「わかりやすさ」はおそらく同等の資格をもつのでしょうね。なぜならそのどちらもが、「虚偽に満ちた 共通意識の捏造」に容易に加担し得るものだからです。言い換えれば、難解であるから、あるいはわかりやすいからというだけの理由によっては、何事も評価さ れることもできなければ非難されることもできない。肝心なのはその「難解さ」なり「わかりやすさ」がどこへ向かうものであるかということだと私は思いま す。

人は見たいものしか見ようとしない。そして見たくないものは無視するか、よくてもせいぜい不快感を示すといったところです。おそらく今日の芸術が抱えてい る問題のひとつは、じつはその「見たくないもの」を見ないために自分が機能しているという事態に無自覚である(あるいはその事態をこそ無視している)とい う点にあるのではないでしょうか。そして、見たいものーーそれはせいぜい「私たちの夢」という名の虚偽か悪態にすぎない場合が多いわけですがーー、それを 追うことがせいぜい芸術であると信じている。

しかし人が「見たくないもの」とは、そのような私たち自身の愚かさ加減のことなのではないでしょうか。とするならば、自分が素直に反応できる作品以上に、 自分が抵抗を覚える作品や事態にこそより一層注意をを払うべきだと考えることもできるでしょう。といいつつも、私たちが本当に自らの愚かさ加減に、この醜 態にしっかり目を見開くことができるかどうか、正直なところ甚だ心許ないのではありますが。

2006.05.20

Date: 4月 13th, 2006
Cate: Atushi Sugita

向こう側から

杉田敦

前回の竹内さんの指摘を興味深く読みました。僕は最近、おそらく同じことを反対側から考えています。よく学生などから聞かされる言葉に、現代美術の難解さ というものがあります。しかし、この「難解さ」には、いくつもの問題が潜んでいるような気がしています。ひとつは、結局むしろ現代美術は、「難解さ」とし て容易に理解されるカテゴリーに堕しているという問題。そして、そうした実態と乖離した判断を下している人々が、そのこと自体を問おうとしていないという こと。またもう1つは、そう口にする人たちが必ず付け加える、「誰にもわかるものを」という基準に忍び込んでいる、奇妙な多数性。結局、1人の判断では持 ちこたえられずに、暗黙のうちに自身と同様に判断している多数の人を捏造してしまっているという問題。この最後の部分は、竹内さんの指摘と、表裏をなして いるようにも思えます。独りよがりな独断性とともに、ある種の共同意識を捏造してしまうという脆弱性。この二面性があるのかもしれません。現代の表現に対 して繰り返し用いられてきた難解さという便利なレッテルが、もしも同時にそうした虚偽に満ちた共通意識の捏造に加担しているのであれば、それこそ現代美術 はまさに、そうしたレッテルを拭い去る努力をすべきです。けれども、だとすればこそ、それは「誰にもわかるもの」や「誰にも親しめるもの」という安易な分 枝に向かうことではないはずです。

2006.04.13

Date: 3月 20th, 2006
Cate: Mariko takeuchi

一度に

竹内万里子

ひとつのことすらまともにできないというのに、いくつもの用を同時に抱えて右往左往しているうち、すっかり春めいた日々が来て、しばし呆然としています。

ところで昨今、自己責任とか自己決定論とかいう言葉がすっかり世間に定着しているようですね。このところ、そのことについて考えていました。他人に迷惑を かけなければ自分で決定してよい、責任をとればよい、という論理は、一見あまりにも正当なように思えますが、それは同時に、私たちを取り巻くより大きな構 造に対する疑念を思考停止させてしまうものでもあります。それがとりわけネオ・リベラリズムの政治的戦略に都合のよい論理として利用されているという事態 は、事の重大さに比べて適切に論じられていないように思います。

この問題は、もちろん狭義の政治だけにかかわるものではありません。日頃、作品を制作する方々と話をしている際に、「好きだから」という言葉をたびたび聞 くことがあります。何かを好きだったり嫌いだったりすることはもちろん一向に構いませんが、じつはそのたびに、どこか歯がゆい思いを覚えます。好きだった ら何をしてもいいのでしょうか。「芸術」だったらすべてが許されるのでしょうか。「好きだから」「面白いから」と言った途端に、見えなくなり、隠蔽される もの。作品を見せるという行為には、「好き」以上の何かがつねに問われるはずです。それは「共同性」ではなく、むしろ共鳴性ないし共振性とでもいうべき、 倫理的なまなざしに近い何かだろうと思います。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とレーニンは語りましたが、芸術がその「善意」から無縁であるな どと、いまさら誰が予言できるでしょうか。

2006.03.20

Date: 1月 20th, 2006
Cate: Atushi Sugita

少し時間を経て

杉田敦

ちょっと時間がたちすぎちゃったけど(年も変わちゃたし)、横浜トリエンナーレについて、前回の竹内さんの意見を引き受けて少し。

僕の周囲では、結構意見は二分されていました。僕自身は、結構楽しめたのだけど、それなりに不満も残った。竹内さんが書いていたように、表現を契機として 開示されるものと言う意味では、今回は全体的にそれが薄かったように思う。ざらざらした感じは嫌いではなかったけれども、それでも、軽やかな身振りが最終 的にアート内部の業界へと回帰するような気持ち悪さを感じたのも事実でした。これを単に批判ととられるとまずいのだけど、ずいぶん楽しんだし、考えさせら れる作家もいたのだけど、でも今のような感想をぬぐいきれなかった。ひとたびそういう意識が芽生えてしまうと、こんどは逆に、フィニッシュの精度の荒さも 作為にしか見えず、アジアの作家に多い日常のこまごまとしたものを詰め込む類の作家たちも、どうもオリエンタリズム的な視点で悪態をつきたくなってしまう というのが正直なところだった。これは微妙なところで、ちょっとした断片の印象が、全体を左右するものでもあると思う。ただ、どちらかと言うと今回は、表 面的にはざらざらしつつも、何か統御されたような感をぬぐえず、結局なんとなく読後感として、しばらく時間がたった今、洗練されたフィニッシュの個展と同 じような印象の中に納まってしまっている。

今年は、マニフェスタがキプロスであります。ギリシアのすぐ南かなと思っていたのに、あらためてみてみるとレバノン沖といった感じ。行けたら行こうと思う のだけど、前回のサン・セバスチャンといい、ずいぶん過激なとこばかり。ただ、こうした場所で見てみると、PCと呼ばれるものも、いつも以上に慎重になっ ているのがおもしろい。でもそれって当たりまえだし、それこそがスタート地点だったはずなのに。やっぱり、様式化する過程でぬるくなるのかな?

今回は、ゆるめに、校正もせずにUP!

2006.01.20

Date: 12月 2nd, 2005
Cate: Mariko takeuchi

開発すること

竹内万里子

横浜トリエンナーレは玉石混交、それはそれで今日の社会の良い面も悪い面も反映していたように思いました。ただ改めて思ったのは、「現代美術」なり「アー ト」というフレームに甘えた作品が多いということ。そのフレーム自体はなんら否定すべきものではありませんが、それをただ鵜呑みにし、自己の行為に対する 真摯な批判を欠いた作品が多いように思えたことは、やはり残念なことでもありました。

私は、芸術なりアートというものは、ある意味で、美術館やギャラリーを出た後に始まるものだと思っています。たとえば、ある日空港でふと目の前の光景が フィシリ&ヴァイスのエアポートの写真に重なってしまうということ。あるいは、夕暮れの空に羽ばたく鳥の群れを目にして、深瀬の「烏」を思わずそこに見い だしてしまうこと。それは、ただ「似ている」から作品を思い出すというような単純な問題ではありません。そのとき起きているのは、作品という引き金によっ て、世界が潜在的にもつ無数の「質」のひとつに初めて立ち会うという事態なのです。逆にいえば、作品がなければそのような世界の「質」に立ち会うことがで きなかったかもしれないといえます。

少々乱暴な物言いをしてしまいましたが、要するに重要なのは、作品それ自体ではなく、それが開示する世界の「質」のほうだと私は思っています。したがって それを開示するのは必ずしも「アート」である必要はない。私たちはそれぞれ、世界の新たな質を見いだすための方法を自分自身で開発すべきなのです。それを 「アート」と呼ぼうと、「政治」と呼ぼうと、「哲学」と呼ぼうと、あるいは何ら名前を与えられないとしても、構うことはない。そのことを、私たちはどれだ け深く自覚できているのでしょうか。

2005.12.02

Date: 10月 24th, 2005
Cate: Atushi Sugita

路地奥で

杉田敦

先日、障害者プロレス”Dog Legs”を観にいきました。身体の障害や、知能の障害を持つ人と、健常者が闘うというものですが、字面から伝わるイメージとは裏腹に、最初から抱腹絶倒で、そしてそれ以上にさわやかな感動に包まれました。

メインイヴェントは、この日を最後に引退する女子レスラー”ジャイアント馬場子”。「ひとりでリングに上がれない!」、「ひとりでリング上で動けない!」 リングアナの容赦のない紹介を受けて、リング上のスポットの中で蠢く馬場子。まるでそれは、アナ・ガスケルの少女のようにも見えなくはなく、気高ささえ感 じさせるものでした。そんな馬場子は、対戦相手、愛人ラマンの足を口に受けたままギブアップ。観客は、大いに笑い、感動し、そして静まり返りました。

僕は正直、このときのリング上の馬場子を、大野一雄の生み出すものよりも美しいと感じました。見えるままの姿でそこに存在し、ストレートな反応に包まれ る。これほどかけがえのない瞬間があるだろうかと思いました。不自由に対する嘲笑も、慈愛も、生きていることの醜悪さも高貴さも、すべてがそこに等価なも のとしてあるように感じたのです。そしてそのとき、自分たちの生きている世界が、暗黙のうちに障害者と健常者に強いているものを感じさせられました。会場 を後にして、下北沢の路地奥の飲み屋で飲みながら、知らず知らずのうちに世界に浸透している、不愉快な力学にしたがっている自身をあらためて知らされるこ とになったのです。そしてそうしたポリティクスに対して鈍感なことを……。

もちろんそのときリング上にあったものが、自分の周囲の表現をめぐる関係の中にあるのかということも自問せざるを得ませんでした。種々の権威におもねよう とするものたちや、力関係の中で臆して本心を語れないものたちばかりが蠢く世界。数時間前目にした光景と比較すると、あまりにもそれは醜悪なものでしかあ りません。けれども、Dog Legs がそれ以上に困難な状況から立ち上がったように、もちろんそうだからこそすべきことがあるはずだと、アルコールと路地奥の闇が、鼓舞しているように思えま した。

2005.10.24

Date: 10月 7th, 2005
Cate: Mariko takeuchi

9月は

竹内万里子

中国奥地へ行ってきました。山西省の平遙というところで中国最大の写真祭が開かれたのです。写真を見るということ、見せるということ、あるいは作品の取り扱いということも含めて、いわば野ざらし状態のかなりワイルドな現場でした。しかし具体的に何がどうということよりも、目に見えない重い力の渦に自分が巻 き込まれているという底なしの恐怖がひたひたと満ちてくるというのでしょうか、自分もまた川に向かって盲目的に突進するレミングの群れの一員であるという事実を否応なく突きつけられる、そんな貴重な体験となりました。

たしかに力学ないしポリティクスとは基本的に目に見えないものですが、そうやって、ときに自分を取り巻く巨大なポリティクスが異様なまでに目に見える、あるいは身体に影響を及ぼしてくる、ということがあります。私たちは日頃あまりにも、そうした目に見えないもの、ポリティクスに対する想像力(知力)を欠如 していると思うのです。それは政治、文化、その他あらゆるものにおいて同様にいえると思います。

アスベストの問題がなぜ今になってここまで深刻化し浮上するのかということも、その問題と無縁ではないでしょう。非常に細く強度のあるこの天然の鉱物繊維 は、かつては皮肉にも「奇跡の鉱物」と呼ばれて様々な用途に使われてきました。アスベストという言葉は「永遠不滅の」とか「消せない」という意味のギリシャ語に由来しているそうですが、実際、それがいったん飛散してしまえば、それは吸い込んでも潜伏期間が非常に長く、また自然界ではほとんど分解すること がありません。目に見えなければ関係がない、あるいは存在しないものであるとみなしてきた大きなつけが、今になってまわってきているわけです。それはもはや、アスベストだけの問題ではないのですが――。

2005.10.07

Date: 8月 25th, 2005
Cate: Atushi Sugita

アスベスト

杉田敦

この返答が前回の竹内さんのメールに対する答えになっていないとしたら、先日会ったときに実際に話してしまったからでしょうね。まあそういう、伏せられている部分があるのも面白い気がします。戦争を巡る表現の問題について、少し辛辣な話もしましたね。

ところで、僕の周囲では現在、社会的問題にもなっているアスベストが大きな関心事になっています。art& river bank を含め、古いビルのリノヴェーションは、地価の高い都市部では、ギャラリーやスタジオなど、スペースを確保する上で有効な方法のひとつです。このとき、ど ちらのスペースも、天井高を確保するために、天井を抜くのが一般的な方法となっています。ところが、古いビルの場合、かなりの確立で天井裏に石綿の吹きつ けが行われているのです。僕の友人の写真家Iがスタジオを作ったとき、まだアスベストは大きな問題になっておらず、もうもうと立ち込める煙の中で、業者と 一緒に撤去作業をしたそうです。現在では、撤去費用はリノヴェーションのメリットのひとつであるコストの問題を台無しにする程になるらしく、十分な資金の ない人たちにとって大きな障害のひとつになっています。京橋のとあるギャラリーも移転先でこの問題に直面しています。また、恒常的に運営されるスペース以 外に、テンポラリーで空きスペースでイヴェントを行うような場合にも、障害になるということが考えられます。いろいろ面白い活動が散見されるようになって きた状況に水をさすことにならなければよいのですが。

夏は、いくつかのイヴェントを行うだけで、あっという間に過ぎようとしています。このあと集中講義で京都に行きます。知人の展覧会もいくつかあ り、向こうで少しゆっくりできればと勝手に考えていますが、どうなることやら。ところで、お会いした際にはお伝えできませんでしたが、また年末にファイル 展を行います。今年もぜひセレクターとしてご参加いただきたくお願いいたします。では、こちらこそとりとめないご返事になってしまいましたが失礼します。

2005.08.25

Date: 7月 30th, 2005
Cate: Mariko takeuchi

寄り道だらけの

竹内万里子

長旅から帰りました。おかげでずいぶん元気に(のん気に?)なったような気がします。

杉田さんがおっしゃるように、なんらかの外部を意識することが「深み」の放棄に繋がりかねないということは、確かにありますね。ただし、アマチュアリズム は「わかりやすさ」と必ずしも結びつくものでないことも確かです。にもかかわらず、「わかりやすさ」とは外へ開かれること、すなわち善であり、その一方で 「わかりにくい」ないし「わからない」ものは外に開かれていない、すなわち悪であるというような安易な認識が、少なからぬ場で目撃されることも確かです。

しかし本当にそうなのでしょうか。むしろ「わからない」ことから目を逸らすことなく、とりあえず、わからないまま引き受けてみること。そしてゆっ くりと時間をかけてそれを生きること。外に開かれるとは、そういうことなんだと思いますし、アマチュアリズムというものもまたそうした精神的土壌から生ま れるものなのではないかと思います。

つい話が逸れました(といっても「本題」はそもそもないのですが)。マドリッドでは、植田正治の回顧展を見てきました。自分がいつのまにかある種のクリ シェによってこの写真家を「わかった」つもりになっていたことを痛感し、いろいろな発見を得ました。ベッヒャーの回顧展もちょうど行なわれていたのです が、これもまた目から鱗でした。それについてはまた今度。それからアルルの写真祭、ベネチア・ビエンナーレは共に、ある意味で優秀で、それなりによく出来 ていたという印象ですが、逆にずばぬけた印象がなかったというのも事実。もっともフェスティバルにずばぬけた何かが必要か?という問題もありますが。

こうしてただつらつらと駄文を重ねてしまいそうなので、とりあえずこの辺にしておきます。また少しだけ、北のほうへ行ってきます。

2005.07.30

Date: 6月 6th, 2005
Cate: Atushi Sugita

不覚にも

杉田敦

カエターノのライヴ、友人が席を替わってくれたおかげで、とてもいい席で見れました。バタバタと席を移動して着席。すごい、ここよく見えるじゃない!暗 転。一曲目”Minha Voz, Minha Vida”と、考える間もない事の進行に、不覚にも一曲目から涙が止まりませんでした。コンサートがはねてから、池袋の大衆酒場、豊田屋で、レモンハイを 飲みながら、まだこんなに感動できるんだとわれながら驚きました。きっと、写真やアートに対しても、そうした感情は残っているはず。

返事が遅れたのは、予告した展覧会のうち、森美術館を見てからにしようと思ったためです。期待していたエイヤ=リサ・アハティラは、全作品が1ス クリーン・ヴァージョンでDVD化されているためか、ちょっと期待はずれでした。2スクリーン・ヴァージョンの”consolation service”も、唯一、そのまままのかたちでDVD化されているし。期待が大きかっただけにちょっと拍子抜けです。グレゴリー・クリュードソンも悪く なかったけど、映像作品の狭間で観ると、作品の内容からして少し分が悪いようにも思えました。

アートフェアに関しては、僕も同じような苦手意識があります。なんとも言いがたい、居心地の悪さ。きっとそれは、竹内さんが書いてくださったよう なことなのだと思います。ひょっとすると竹内さんはもうアルルに旅立っているのかな。帰国されたら、ぜひ、写真祭の様子をお聞かせください。今年は、ヴェニスは石内さんですね。石内さんの”Mothers”は、お母様がなくなられた直後、発表の予定はないけど、何となく撮っているのと語られていたことを思 い出します。当初は、石内さんの中では異質な、小ぶりな作品としてまとまるのかと思われましたが、時が経つにつれてその存在感が増していっているように思 えます。こういうこともあるのですね。

とりとめがないことを書き記しました。テクストにすると、その途端自分の発した言葉であると同時に、よそよそしさというか、不可触な感じもします。それが、いいかたちに膨らんでいくことを願って。

2005.06.06