Archive for 1月, 2007

Date: 1月 2nd, 2007
Cate: Mariko takeuchi
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求心的、遠心的

竹内万里子

杉田さんがBTに書かれた展評、とても興味深く拝読しました。複製技術としてではなく編集技術としての写真の読み直しというご指摘には、全く同感です。確 かに、今日の日本における写真の特性について、各作家間の差異を含めて考えてみると、いろいろ面白いことに気づきます。たとえばご指摘になっていたよう に、クリュードソンやウォールらのようなある種の物語性を孕んだスペクタクルとして写真を定位する試みは(よりパーソナルな感覚を喚起するアンティルのよ うな試みについても同様)、国内ではなかなかお目に掛かることがありません。問題なのはその善し悪しではなく、なぜこういう事態が生じているのかというこ とだと思うのですが、それをただ欧米主導のマーケットの動向のせいだと片付けてしまうわけにもゆきません。

そんなことをつらつらと考えている時に、ちょうどレヴィ=ストロースの講義録を読んでいて、ある記述に思い当たるところがありました。日本の精神と西欧の 精神の差異は、求心的運動と遠心的運動の対比ではないかというのです。たとえば日本の大工は鋸や鉋を使うとき、向こう側へ押すときではなく手前に引くとき に切ったり削ったりしますね。これは欧米とは逆なのですが、それだけでなく、日本では様々な分野や様式においてつねに自分のほうへ引き戻す動き、つまり自 己への回帰がみられるといいます。言い換えれば、西欧のようにもともと与えられた「自我」から出発するのではなく(「われ思う、ゆえに我あり」)、日本人 にとって「自我」は到達できるかわからぬまま求められた結果として得られるものなのではないか、とレヴィ=ストロースは指摘しています。

それを詳細に検証するのは無論私の手に余りますが、しかしこの指摘は、日本における写真やアートの状況をめぐって常に自分が感じてきたことと確実につなが るところがありました。少なくとも今、私たちの身のまわりを覆っているのは、世界に対して目を見開く「遠心的」なアティチュードよりも、いつかどこかで手 に入れられるかもしれない「私」を期待した「求心的」なそれのほうが圧倒的に多い。はっきりと「自分探し」であることを自認する作品はもちろん、結局は 「アート」の名を借りた「自分探し」であるような作品が、なぜこれほど多いのか。それがずっと気になってきました。このような事態を単なる風土やマーケッ トの問題へ還元することには個人的に興味を覚えませんが、これだけグローバリゼーションやらインターネットやらが跋扈し、「伝統」なり「蓄積」が忘却の彼 方へ押しやられているようにみえる今だからこそ、よけいにどうしようもなく見えてしまう「差異」はやはりある。それは「弱さ」でもあり「強さ」にもなり得 るのでしょうが。

2007.01.02