あたりまえのこと
竹内万里子
さてカエターノ・ヴェローゾのコンサートは如何でしたか。ちょうど来日していることを知らずに彼のアルバムを聴いたところだったので、少し驚きました。
しかしカエターノの歌を、自分なりに受け止められるようになったのは、恥ずかしながらここ数年のことです。きっかけは、ある映画の中で、彼が「ククルク ク・パロマ」を唄うシーンでした。それが何の映画だったのか、ナンニ・モレッティの「息子の部屋」だと思い込んでいたのですが、改めて調べてみたら、ペド ロ・アルモドバルの「トーク・トゥー・ハー」だったということに気づきました。これまたとんでもない勘違いをしていたようです。
しかし、そのような勘違いをしていたということに、おかしさを超えて、不思議なつながりを覚えます。人の生へ亀裂を生じさせてしまう、どうしようもない喪 失。もはやそれを喪失と呼ぶことすらためらわれるほど埋めようのない穴と、「にもかかわらず」過ぎゆく生との間で、引き裂かれながら佇む人間が、この二つ の映画には登場します。じつは、そのどうしようもない喪失すら「あたりまえ」であってしまうということ、それこそがもっとも残酷な事実なのですが、この二 つの映画はそうした生の根本的な残酷さに触れているという点で、互いにそう遠くはないでしょう。
そのような生への哀しみとカエターノの歌との関係、それもまたとても興味があることなのですが、話があまりにもふくらんでしまいそうなので(そもそも私の手にはとても負えないので)やめておきます。
「あたりまえ」のこと、これが生きる上でも表す上でも、もっとも難しいことではないかと思います。杉田さんがおっしゃるように、食べ、飲み、語らい、聞く こと、そうした日々の経験と、ギャラリーや美術館で作品を見るという経験は、人がそこにいる限り(つまり、ありえない純粋主義を信奉しない限りは)、互い に異質なものでありながらもどこかでつながらないはずがありません。むしろそうやって私たちは日々、街を歩き、作品を見て、喉が渇くという経験を繰り返し ているわけですから。
作品を見るという経験は、いってみれば、異質なものと出会うという経験であって、その意味ではたしかに特別なことかもしれません。しかし、そのような異質 なもの(「理解できないもの」あるいは「役に立たないもの」とすら呼んでいいかもしれませんが)と出会い、それを何らかの形で受け入れる(あるいは亀裂を 残す)ということは、あたりまえにおこなわれていい。むしろそうあるべきです。それはなんら特別なことでも「格好いい」ことですらもないと私は思います。
私がしばしば海外の写真祭へ行くのは、ただ海外が好きだとか日本から脱出したいとかいうわけではなく(いや、そうでないともあながち言い切れませ んが)、食べ、飲み、語らい、聞く、という(あたりまえの)経験をひとつひとつ、改めて確認しながら、その中で作品をゆっくりと見たいがためでもあります (その点、アートフェアはどうも苦手です)。ですからもちろん、フェスティバルの必須条件は、美味しいお酒と食事と音楽があること。その点、アルルの写真 祭は30年以上続いているだけあって、その条件を充分に満たしているといえます(しかも出版社Actes Sudの書店まである)。ただし、音に関しては少々さびしい環境かもしれません。あまりにも観光化されてしまったせいでしょうか。
まあ、こうしたフェスティバルもまた作られた環境であることに変わりはありませんし、存立基盤としてのマーケットの問題についても考えるべきことは多々あ ります。しかしいずれにせよ、自分の手で何かを変えていかなければ、私たちはあたりまえのことすら手に入れられないのでしょう。それは結局、「今ここ」を 受け入れることにつながってゆくはずなのですが。
2005.05.31