Archive for category Mariko takeuchi

Date: 4月 4th, 2010
Cate: Mariko takeuchi
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2年ぶりに

杉田さん、この2年あまりのいささか不可思議でやむを得ない沈黙のうちに、お互い色々なことがありましたね。私といえば、我ながら呆れるほど居場所を転々と変えながら、かつて杉田さんが静かに諭してくださった苛立ちや違和感の奥にあるものを、自分なりにやっと咀嚼しはじめたような感もあります。さて、何から話しはじめましょう? 話すことは、本当にたくさんあるのですが……

Date: 10月 6th, 2007
Cate: Mariko takeuchi
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写真は誰のものか?

竹内万里子

なんと、半年近くもご無沙汰してしまいました。現在インターネット上でこれほどのスローテンポで展開される往復書簡が他にあるのだろうか(いや、インター ネットでなくても…)、と少々自虐的に問いつつも、杉田さんの寛大さには、本当に頭が下がる思いです。さて、今日までart & river bankで開催されていた森澤勇 / 森澤ケン「MORISAWA PHOTO SHOP」は、3月のシンポジウムで話題にのぼった「アーカイヴと写真」という問題圏にも触れた、とても面白い展覧会だったと思います。写真家の森澤ケン さんが、祖父にあたる森澤勇さんが撮りためた膨大な写真を何年もかけて整理し、選んだ写真をプリントし(すでに4000点ほどプリントされたというから驚 きです)、そのひとつの結果として、今回の会場に数十点が並んでいました。お祖父様は旧軽井沢で写真館を営むかたわら様々な写真を撮られていたようです が、しかしこれらの写真を「作品」として発表しようというような意思も特になかったようです。しかし、孫にあたる森澤ケンさんの手を経て実際に会場に並べ られた写真からは、みずみずしいと思わず呟きたくなるような、何かにとらわれることのないまなざしの質が、強烈に感じられてしまう。ほとんど嫉妬してしま うほどに。これはいったいどういうことなのでしょう。

私はたびたび、写真は誰のものか、と思うことがあります。近年、著作権や肖像権といった権利意識が社会全体に高まっていることには、それなりの理由がある とは思いますが、いっぽうで私は、このいささか過剰にも思える風潮に対して、一定の危惧を拭いきれません。写真というものは、本当に「撮った人」のもので あり、あるいはまた「撮られた人」のものなのだろうかと。実際、森澤ケンさんが手がけられているこの仕事は、ただ単に古い写真を見つけて焼き直したという 類のものではまったくないと思います(そもそも、写真に「新しさ」や「古さ」という言葉がどこまで有効なのか、じつに疑わしいものです)。これらの宛先の ない写真たちからは、「誰のものか」などという些末な権利意識からは離れた場所で、写真という広大なアーカイヴの海を泳ぐ私たち人間に残された本当の仕事 とは何なのかを、改めて問われている気もします。

2007.10.06

Date: 1月 2nd, 2007
Cate: Mariko takeuchi
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求心的、遠心的

竹内万里子

杉田さんがBTに書かれた展評、とても興味深く拝読しました。複製技術としてではなく編集技術としての写真の読み直しというご指摘には、全く同感です。確 かに、今日の日本における写真の特性について、各作家間の差異を含めて考えてみると、いろいろ面白いことに気づきます。たとえばご指摘になっていたよう に、クリュードソンやウォールらのようなある種の物語性を孕んだスペクタクルとして写真を定位する試みは(よりパーソナルな感覚を喚起するアンティルのよ うな試みについても同様)、国内ではなかなかお目に掛かることがありません。問題なのはその善し悪しではなく、なぜこういう事態が生じているのかというこ とだと思うのですが、それをただ欧米主導のマーケットの動向のせいだと片付けてしまうわけにもゆきません。

そんなことをつらつらと考えている時に、ちょうどレヴィ=ストロースの講義録を読んでいて、ある記述に思い当たるところがありました。日本の精神と西欧の 精神の差異は、求心的運動と遠心的運動の対比ではないかというのです。たとえば日本の大工は鋸や鉋を使うとき、向こう側へ押すときではなく手前に引くとき に切ったり削ったりしますね。これは欧米とは逆なのですが、それだけでなく、日本では様々な分野や様式においてつねに自分のほうへ引き戻す動き、つまり自 己への回帰がみられるといいます。言い換えれば、西欧のようにもともと与えられた「自我」から出発するのではなく(「われ思う、ゆえに我あり」)、日本人 にとって「自我」は到達できるかわからぬまま求められた結果として得られるものなのではないか、とレヴィ=ストロースは指摘しています。

それを詳細に検証するのは無論私の手に余りますが、しかしこの指摘は、日本における写真やアートの状況をめぐって常に自分が感じてきたことと確実につなが るところがありました。少なくとも今、私たちの身のまわりを覆っているのは、世界に対して目を見開く「遠心的」なアティチュードよりも、いつかどこかで手 に入れられるかもしれない「私」を期待した「求心的」なそれのほうが圧倒的に多い。はっきりと「自分探し」であることを自認する作品はもちろん、結局は 「アート」の名を借りた「自分探し」であるような作品が、なぜこれほど多いのか。それがずっと気になってきました。このような事態を単なる風土やマーケッ トの問題へ還元することには個人的に興味を覚えませんが、これだけグローバリゼーションやらインターネットやらが跋扈し、「伝統」なり「蓄積」が忘却の彼 方へ押しやられているようにみえる今だからこそ、よけいにどうしようもなく見えてしまう「差異」はやはりある。それは「弱さ」でもあり「強さ」にもなり得 るのでしょうが。

2007.01.02

Date: 10月 23rd, 2006
Cate: Mariko takeuchi
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たどり着く家

竹内万里子

マニフェスタ6の中止については、両者の話し合いの場が法廷へと移されたということをホームページで読みましたが、その後の動きは把握できていません。で すから何かを知ったかのように話すことはもちろん許されないのですが、あえて直感的な物言いをするならば、「アート」が思い描いていた「現実」はそんなも のでない、はるかに根深い脅威なのだとということを、改めて思い知らせる出来事であったようにも思います。信じること、想像すること、問いかけること、そ うした小さな抵抗が、利用する/される以前に、その指先の一振りで吹き飛んでしまうような。

先日、戦時中の写真雑誌を少しまとめて見る機会があり、戦時色がどれほど濃くなろうともアマチュア層の投稿写真がほとんど変わることがなく奨励され続けら れていたことに今さらながら驚きを覚えました。何もなかったかのように(いや何かがあったからだということもできるかもしれませんが)、延々と繰り返され る穏やかな生活の記録や表現への憧れ。その隣には明らかにそれとわかるプロパガンダ記事が並んでいる。ここで責任の所在を云々する気はありませんが、ただ そのような行為が今日もなお表情を変えることなく続けられ、奨励され、「良いこと」とされている(もちろん経済的に社会を支えてもいる)ことに、写真をめ ぐるあらゆる問題の根深さを痛感します。基本的な構造は今も昔も変わらないわけです。

杉田さんがおっしゃるように、忍耐深くあること、忍耐深く家へたどり着くことの重要性、そして自分がその忍耐強さの一端ももち得ていないことを深く実感し ます。そうである限り、自分の言葉もまた一部の無邪気な写真たちと同じように、時代の力に加担してしまうでしょう。ただし私は、たどり着くべき家、それす らまだ手にしていないのかもしれません。

2006.10.23

Date: 5月 20th, 2006
Cate: Mariko takeuchi
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見たくないもの

竹内万里子

杉田さんの指摘された意味においてこそ、「難解さ」と「わかりやすさ」はおそらく同等の資格をもつのでしょうね。なぜならそのどちらもが、「虚偽に満ちた 共通意識の捏造」に容易に加担し得るものだからです。言い換えれば、難解であるから、あるいはわかりやすいからというだけの理由によっては、何事も評価さ れることもできなければ非難されることもできない。肝心なのはその「難解さ」なり「わかりやすさ」がどこへ向かうものであるかということだと私は思いま す。

人は見たいものしか見ようとしない。そして見たくないものは無視するか、よくてもせいぜい不快感を示すといったところです。おそらく今日の芸術が抱えてい る問題のひとつは、じつはその「見たくないもの」を見ないために自分が機能しているという事態に無自覚である(あるいはその事態をこそ無視している)とい う点にあるのではないでしょうか。そして、見たいものーーそれはせいぜい「私たちの夢」という名の虚偽か悪態にすぎない場合が多いわけですがーー、それを 追うことがせいぜい芸術であると信じている。

しかし人が「見たくないもの」とは、そのような私たち自身の愚かさ加減のことなのではないでしょうか。とするならば、自分が素直に反応できる作品以上に、 自分が抵抗を覚える作品や事態にこそより一層注意をを払うべきだと考えることもできるでしょう。といいつつも、私たちが本当に自らの愚かさ加減に、この醜 態にしっかり目を見開くことができるかどうか、正直なところ甚だ心許ないのではありますが。

2006.05.20

Date: 3月 20th, 2006
Cate: Mariko takeuchi
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一度に

竹内万里子

ひとつのことすらまともにできないというのに、いくつもの用を同時に抱えて右往左往しているうち、すっかり春めいた日々が来て、しばし呆然としています。

ところで昨今、自己責任とか自己決定論とかいう言葉がすっかり世間に定着しているようですね。このところ、そのことについて考えていました。他人に迷惑を かけなければ自分で決定してよい、責任をとればよい、という論理は、一見あまりにも正当なように思えますが、それは同時に、私たちを取り巻くより大きな構 造に対する疑念を思考停止させてしまうものでもあります。それがとりわけネオ・リベラリズムの政治的戦略に都合のよい論理として利用されているという事態 は、事の重大さに比べて適切に論じられていないように思います。

この問題は、もちろん狭義の政治だけにかかわるものではありません。日頃、作品を制作する方々と話をしている際に、「好きだから」という言葉をたびたび聞 くことがあります。何かを好きだったり嫌いだったりすることはもちろん一向に構いませんが、じつはそのたびに、どこか歯がゆい思いを覚えます。好きだった ら何をしてもいいのでしょうか。「芸術」だったらすべてが許されるのでしょうか。「好きだから」「面白いから」と言った途端に、見えなくなり、隠蔽される もの。作品を見せるという行為には、「好き」以上の何かがつねに問われるはずです。それは「共同性」ではなく、むしろ共鳴性ないし共振性とでもいうべき、 倫理的なまなざしに近い何かだろうと思います。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とレーニンは語りましたが、芸術がその「善意」から無縁であるな どと、いまさら誰が予言できるでしょうか。

2006.03.20

Date: 12月 2nd, 2005
Cate: Mariko takeuchi
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開発すること

竹内万里子

横浜トリエンナーレは玉石混交、それはそれで今日の社会の良い面も悪い面も反映していたように思いました。ただ改めて思ったのは、「現代美術」なり「アー ト」というフレームに甘えた作品が多いということ。そのフレーム自体はなんら否定すべきものではありませんが、それをただ鵜呑みにし、自己の行為に対する 真摯な批判を欠いた作品が多いように思えたことは、やはり残念なことでもありました。

私は、芸術なりアートというものは、ある意味で、美術館やギャラリーを出た後に始まるものだと思っています。たとえば、ある日空港でふと目の前の光景が フィシリ&ヴァイスのエアポートの写真に重なってしまうということ。あるいは、夕暮れの空に羽ばたく鳥の群れを目にして、深瀬の「烏」を思わずそこに見い だしてしまうこと。それは、ただ「似ている」から作品を思い出すというような単純な問題ではありません。そのとき起きているのは、作品という引き金によっ て、世界が潜在的にもつ無数の「質」のひとつに初めて立ち会うという事態なのです。逆にいえば、作品がなければそのような世界の「質」に立ち会うことがで きなかったかもしれないといえます。

少々乱暴な物言いをしてしまいましたが、要するに重要なのは、作品それ自体ではなく、それが開示する世界の「質」のほうだと私は思っています。したがって それを開示するのは必ずしも「アート」である必要はない。私たちはそれぞれ、世界の新たな質を見いだすための方法を自分自身で開発すべきなのです。それを 「アート」と呼ぼうと、「政治」と呼ぼうと、「哲学」と呼ぼうと、あるいは何ら名前を与えられないとしても、構うことはない。そのことを、私たちはどれだ け深く自覚できているのでしょうか。

2005.12.02

Date: 10月 7th, 2005
Cate: Mariko takeuchi
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9月は

竹内万里子

中国奥地へ行ってきました。山西省の平遙というところで中国最大の写真祭が開かれたのです。写真を見るということ、見せるということ、あるいは作品の取り扱いということも含めて、いわば野ざらし状態のかなりワイルドな現場でした。しかし具体的に何がどうということよりも、目に見えない重い力の渦に自分が巻 き込まれているという底なしの恐怖がひたひたと満ちてくるというのでしょうか、自分もまた川に向かって盲目的に突進するレミングの群れの一員であるという事実を否応なく突きつけられる、そんな貴重な体験となりました。

たしかに力学ないしポリティクスとは基本的に目に見えないものですが、そうやって、ときに自分を取り巻く巨大なポリティクスが異様なまでに目に見える、あるいは身体に影響を及ぼしてくる、ということがあります。私たちは日頃あまりにも、そうした目に見えないもの、ポリティクスに対する想像力(知力)を欠如 していると思うのです。それは政治、文化、その他あらゆるものにおいて同様にいえると思います。

アスベストの問題がなぜ今になってここまで深刻化し浮上するのかということも、その問題と無縁ではないでしょう。非常に細く強度のあるこの天然の鉱物繊維 は、かつては皮肉にも「奇跡の鉱物」と呼ばれて様々な用途に使われてきました。アスベストという言葉は「永遠不滅の」とか「消せない」という意味のギリシャ語に由来しているそうですが、実際、それがいったん飛散してしまえば、それは吸い込んでも潜伏期間が非常に長く、また自然界ではほとんど分解すること がありません。目に見えなければ関係がない、あるいは存在しないものであるとみなしてきた大きなつけが、今になってまわってきているわけです。それはもはや、アスベストだけの問題ではないのですが――。

2005.10.07

Date: 7月 30th, 2005
Cate: Mariko takeuchi
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寄り道だらけの

竹内万里子

長旅から帰りました。おかげでずいぶん元気に(のん気に?)なったような気がします。

杉田さんがおっしゃるように、なんらかの外部を意識することが「深み」の放棄に繋がりかねないということは、確かにありますね。ただし、アマチュアリズム は「わかりやすさ」と必ずしも結びつくものでないことも確かです。にもかかわらず、「わかりやすさ」とは外へ開かれること、すなわち善であり、その一方で 「わかりにくい」ないし「わからない」ものは外に開かれていない、すなわち悪であるというような安易な認識が、少なからぬ場で目撃されることも確かです。

しかし本当にそうなのでしょうか。むしろ「わからない」ことから目を逸らすことなく、とりあえず、わからないまま引き受けてみること。そしてゆっ くりと時間をかけてそれを生きること。外に開かれるとは、そういうことなんだと思いますし、アマチュアリズムというものもまたそうした精神的土壌から生ま れるものなのではないかと思います。

つい話が逸れました(といっても「本題」はそもそもないのですが)。マドリッドでは、植田正治の回顧展を見てきました。自分がいつのまにかある種のクリ シェによってこの写真家を「わかった」つもりになっていたことを痛感し、いろいろな発見を得ました。ベッヒャーの回顧展もちょうど行なわれていたのです が、これもまた目から鱗でした。それについてはまた今度。それからアルルの写真祭、ベネチア・ビエンナーレは共に、ある意味で優秀で、それなりによく出来 ていたという印象ですが、逆にずばぬけた印象がなかったというのも事実。もっともフェスティバルにずばぬけた何かが必要か?という問題もありますが。

こうしてただつらつらと駄文を重ねてしまいそうなので、とりあえずこの辺にしておきます。また少しだけ、北のほうへ行ってきます。

2005.07.30

Date: 5月 31st, 2005
Cate: Mariko takeuchi
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あたりまえのこと

竹内万里子

さてカエターノ・ヴェローゾのコンサートは如何でしたか。ちょうど来日していることを知らずに彼のアルバムを聴いたところだったので、少し驚きました。

しかしカエターノの歌を、自分なりに受け止められるようになったのは、恥ずかしながらここ数年のことです。きっかけは、ある映画の中で、彼が「ククルク ク・パロマ」を唄うシーンでした。それが何の映画だったのか、ナンニ・モレッティの「息子の部屋」だと思い込んでいたのですが、改めて調べてみたら、ペド ロ・アルモドバルの「トーク・トゥー・ハー」だったということに気づきました。これまたとんでもない勘違いをしていたようです。

しかし、そのような勘違いをしていたということに、おかしさを超えて、不思議なつながりを覚えます。人の生へ亀裂を生じさせてしまう、どうしようもない喪 失。もはやそれを喪失と呼ぶことすらためらわれるほど埋めようのない穴と、「にもかかわらず」過ぎゆく生との間で、引き裂かれながら佇む人間が、この二つ の映画には登場します。じつは、そのどうしようもない喪失すら「あたりまえ」であってしまうということ、それこそがもっとも残酷な事実なのですが、この二 つの映画はそうした生の根本的な残酷さに触れているという点で、互いにそう遠くはないでしょう。

そのような生への哀しみとカエターノの歌との関係、それもまたとても興味があることなのですが、話があまりにもふくらんでしまいそうなので(そもそも私の手にはとても負えないので)やめておきます。

「あたりまえ」のこと、これが生きる上でも表す上でも、もっとも難しいことではないかと思います。杉田さんがおっしゃるように、食べ、飲み、語らい、聞く こと、そうした日々の経験と、ギャラリーや美術館で作品を見るという経験は、人がそこにいる限り(つまり、ありえない純粋主義を信奉しない限りは)、互い に異質なものでありながらもどこかでつながらないはずがありません。むしろそうやって私たちは日々、街を歩き、作品を見て、喉が渇くという経験を繰り返し ているわけですから。

作品を見るという経験は、いってみれば、異質なものと出会うという経験であって、その意味ではたしかに特別なことかもしれません。しかし、そのような異質 なもの(「理解できないもの」あるいは「役に立たないもの」とすら呼んでいいかもしれませんが)と出会い、それを何らかの形で受け入れる(あるいは亀裂を 残す)ということは、あたりまえにおこなわれていい。むしろそうあるべきです。それはなんら特別なことでも「格好いい」ことですらもないと私は思います。

私がしばしば海外の写真祭へ行くのは、ただ海外が好きだとか日本から脱出したいとかいうわけではなく(いや、そうでないともあながち言い切れませ んが)、食べ、飲み、語らい、聞く、という(あたりまえの)経験をひとつひとつ、改めて確認しながら、その中で作品をゆっくりと見たいがためでもあります (その点、アートフェアはどうも苦手です)。ですからもちろん、フェスティバルの必須条件は、美味しいお酒と食事と音楽があること。その点、アルルの写真 祭は30年以上続いているだけあって、その条件を充分に満たしているといえます(しかも出版社Actes Sudの書店まである)。ただし、音に関しては少々さびしい環境かもしれません。あまりにも観光化されてしまったせいでしょうか。

まあ、こうしたフェスティバルもまた作られた環境であることに変わりはありませんし、存立基盤としてのマーケットの問題についても考えるべきことは多々あ ります。しかしいずれにせよ、自分の手で何かを変えていかなければ、私たちはあたりまえのことすら手に入れられないのでしょう。それは結局、「今ここ」を 受け入れることにつながってゆくはずなのですが。

2005.05.31