Date: 6月 4th, 2010
Cate: Atushi Sugita

art is life ? in Kyoto

楽しかったですね。福さんとのトークも、真剣で、ユーモラスで、軽やかで。その前後、東京では悲惨でした。既存の学問の枠のなかで、既存の価値基準に縛られている人との会話は、何か疲れてしまいます。意味のある活動をしつつも、自分では行動できない人も、利用できる相手とそうでない人を選別する人も、自身への批判にだけ敏感な人も、自分の行動の責任を取れない人も、……。年齢や、立場を問わず、そうした人たちとの会話にすっかり体力と時間を奪われてしまっていました。本当に、自分にとって身になることをしなければならない、けれどもそのマネジメントは、当然のことながら自身の責任です。そう、あらためて感じました。竹内さん、福さんとのトークが楽しく、刺激的だったからこそ、逆にそのギャップに苦しんでいるのかもしれません。

ああ、私の行く手はいづく。そう綴った、心細い巡礼路の高群逸枝を想います。彼女ほどの逆境にもいないのであれば、本当にすべきことをしなければ、自身の責任で。いずれにしても、もっと、いろいろと話をしたいですね。

Date: 4月 4th, 2010
Cate: Mariko takeuchi

2年ぶりに

杉田さん、この2年あまりのいささか不可思議でやむを得ない沈黙のうちに、お互い色々なことがありましたね。私といえば、我ながら呆れるほど居場所を転々と変えながら、かつて杉田さんが静かに諭してくださった苛立ちや違和感の奥にあるものを、自分なりにやっと咀嚼しはじめたような感もあります。さて、何から話しはじめましょう? 話すことは、本当にたくさんあるのですが……

Date: 3月 9th, 2010
Cate: Atushi Sugita

やっと再開です

竹内さん、この間、二年です。いろいろなことがありましたね。それをかいつまんでここで話すのもへんなので、ゆっくりとそれらも小出しにしていきませんか? とりあえず今回は、再開のお知らせがメインなので、少しだけダウンした事情をお話しておきます。事情は簡単で、サーバー元が倒産して、データも全部飛んでしまったのです。幸い、何人かの方々からキャッシュの提供があり、かろうじて全部回収できたというわけです。また、その後もHP作りに手間取り、こんなに日にちがたってしまったのです。それぞれ、周囲の環境も変化しつつありますが、また少し、話し出してみませんか? よろしくおつきあいください。

Date: 3月 3rd, 2008
Cate: Atushi Sugita

長い空隙

杉田敦

この、怠慢による、長い空白のあいだにいろいろなことがありました。そろそろ書店に並ぶであろう、写真批評誌での対談で(メールで行われた)、おそらくも う二度と依頼されることがないほどに、「写真」をこきおろし(でも、本当は愛を持って)、しかもメールゆえに双方がストレスも感じながら、でも昨日は、美 大の大学院生の展示に際して催されたトークショウで実際にお会いして、もっとこうした場を早く持てばよかったと痛感したのでした。竹内さんはやがてしばら く研究のために日本を留守にすることが決まり、僕は10年ほど書き溜めていたものをまとめると称して、結局すっかり書き換えるはめになり、でもやっとのこ とで出版にこぎつけることができた、など。

対談は、やはり多くのものをもたらしてくれます。とても有意義でした。その後メールでも挨拶を交わしましたが、本当に感謝しています。私信で、ソ ンタグをiPodで聴いていると書かれていましたが、コソボを巡って火種がくすぶっているいまだからというのではなく、偶然、僕もハントケを読んでいると ころでした。ハントケはソンタグとは逆の立場ですが、そうした話も含めて、この場でも、それ以外の場でも、自分たちにとって大切なものを凝視めながら、 ゆっくりと(いい訳じみてますが)討議を続けていきましょう。

2008.03.03

Date: 10月 6th, 2007
Cate: Mariko takeuchi

写真は誰のものか?

竹内万里子

なんと、半年近くもご無沙汰してしまいました。現在インターネット上でこれほどのスローテンポで展開される往復書簡が他にあるのだろうか(いや、インター ネットでなくても…)、と少々自虐的に問いつつも、杉田さんの寛大さには、本当に頭が下がる思いです。さて、今日までart & river bankで開催されていた森澤勇 / 森澤ケン「MORISAWA PHOTO SHOP」は、3月のシンポジウムで話題にのぼった「アーカイヴと写真」という問題圏にも触れた、とても面白い展覧会だったと思います。写真家の森澤ケン さんが、祖父にあたる森澤勇さんが撮りためた膨大な写真を何年もかけて整理し、選んだ写真をプリントし(すでに4000点ほどプリントされたというから驚 きです)、そのひとつの結果として、今回の会場に数十点が並んでいました。お祖父様は旧軽井沢で写真館を営むかたわら様々な写真を撮られていたようです が、しかしこれらの写真を「作品」として発表しようというような意思も特になかったようです。しかし、孫にあたる森澤ケンさんの手を経て実際に会場に並べ られた写真からは、みずみずしいと思わず呟きたくなるような、何かにとらわれることのないまなざしの質が、強烈に感じられてしまう。ほとんど嫉妬してしま うほどに。これはいったいどういうことなのでしょう。

私はたびたび、写真は誰のものか、と思うことがあります。近年、著作権や肖像権といった権利意識が社会全体に高まっていることには、それなりの理由がある とは思いますが、いっぽうで私は、このいささか過剰にも思える風潮に対して、一定の危惧を拭いきれません。写真というものは、本当に「撮った人」のもので あり、あるいはまた「撮られた人」のものなのだろうかと。実際、森澤ケンさんが手がけられているこの仕事は、ただ単に古い写真を見つけて焼き直したという 類のものではまったくないと思います(そもそも、写真に「新しさ」や「古さ」という言葉がどこまで有効なのか、じつに疑わしいものです)。これらの宛先の ない写真たちからは、「誰のものか」などという些末な権利意識からは離れた場所で、写真という広大なアーカイヴの海を泳ぐ私たち人間に残された本当の仕事 とは何なのかを、改めて問われている気もします。

2007.10.06

Date: 4月 16th, 2007
Cate: Atushi Sugita

紡ぎ出される

杉田敦

先日の『写真を巡る討議』ではお世話になりました。竹内さんの提出したアーカイヴという視点、捉え方は三者三様だったような気もしますが、確定したものに ついて語り合うのではなく、いまだ形の定まらないものの処し方を模索するような討議は、スリリングな体験でとても刺激的でした。前回の critica=critico のエントリー、求心的、遠心的という視点もとてもユニーク、発展させるべきものであったにもかかわらず、放置したまま時間ばかりが過ぎてしまいました。申 し訳ありません。ボンヤリとした印象なのですが、求心的、遠心的という視点がそのまま利用できるかどうかは定かではありませんが、ひょっとすると、アーカ イヴという言い方の中にも、微妙な質的な差異があるのかもしれません。いわゆる、アーカイヴ・ビルダーまでを視野に入れた、欧米でのアーカイヴへの注目 と、竹内さんや国立近代美術館の増田怜さんが指摘されるような、あくまで個人的な目的で集積されてきたものに対する、アーカイヴ的なアプローチとは、微妙 に異なる面もあるのかもしれません。もちろん、共通点の方が勝るとしても、同時に、その差に対しても注意しておく必要があるのかもしれません。その結果、 求心的、遠心的という視点とも呼応するようになるとおもしろいですね。何かが紡ぎ出されることもあるかもしれません。

ところで、今月末には、年に一度、little red decode という企画展をやらせてもらっている、Space Kobo & Tomo という銀座のスペースで、アーティストの吉原悠博さんの実家である、写真館の土蔵に眠っていた乾板とアルバムをベースとして編集した映像作品の展示が始ま ります。また、今秋には、art & river bank で、若手写真家で2005年度日本写真家協会新人賞受賞の森澤ケンさんが、やはり実家の写真館に遺された、祖父の写真を再プリントした作品の展示が予定さ れています。これら、アーカイヴ性がわかりやすく前面に出た展示は、きっとまた討議した内容に、疑義や深みを与えてくれることになるはずです。ぜひまた、 こうした体験を踏まえて、お話させてください。

2007.04.16

Date: 1月 2nd, 2007
Cate: Mariko takeuchi

求心的、遠心的

竹内万里子

杉田さんがBTに書かれた展評、とても興味深く拝読しました。複製技術としてではなく編集技術としての写真の読み直しというご指摘には、全く同感です。確 かに、今日の日本における写真の特性について、各作家間の差異を含めて考えてみると、いろいろ面白いことに気づきます。たとえばご指摘になっていたよう に、クリュードソンやウォールらのようなある種の物語性を孕んだスペクタクルとして写真を定位する試みは(よりパーソナルな感覚を喚起するアンティルのよ うな試みについても同様)、国内ではなかなかお目に掛かることがありません。問題なのはその善し悪しではなく、なぜこういう事態が生じているのかというこ とだと思うのですが、それをただ欧米主導のマーケットの動向のせいだと片付けてしまうわけにもゆきません。

そんなことをつらつらと考えている時に、ちょうどレヴィ=ストロースの講義録を読んでいて、ある記述に思い当たるところがありました。日本の精神と西欧の 精神の差異は、求心的運動と遠心的運動の対比ではないかというのです。たとえば日本の大工は鋸や鉋を使うとき、向こう側へ押すときではなく手前に引くとき に切ったり削ったりしますね。これは欧米とは逆なのですが、それだけでなく、日本では様々な分野や様式においてつねに自分のほうへ引き戻す動き、つまり自 己への回帰がみられるといいます。言い換えれば、西欧のようにもともと与えられた「自我」から出発するのではなく(「われ思う、ゆえに我あり」)、日本人 にとって「自我」は到達できるかわからぬまま求められた結果として得られるものなのではないか、とレヴィ=ストロースは指摘しています。

それを詳細に検証するのは無論私の手に余りますが、しかしこの指摘は、日本における写真やアートの状況をめぐって常に自分が感じてきたことと確実につなが るところがありました。少なくとも今、私たちの身のまわりを覆っているのは、世界に対して目を見開く「遠心的」なアティチュードよりも、いつかどこかで手 に入れられるかもしれない「私」を期待した「求心的」なそれのほうが圧倒的に多い。はっきりと「自分探し」であることを自認する作品はもちろん、結局は 「アート」の名を借りた「自分探し」であるような作品が、なぜこれほど多いのか。それがずっと気になってきました。このような事態を単なる風土やマーケッ トの問題へ還元することには個人的に興味を覚えませんが、これだけグローバリゼーションやらインターネットやらが跋扈し、「伝統」なり「蓄積」が忘却の彼 方へ押しやられているようにみえる今だからこそ、よけいにどうしようもなく見えてしまう「差異」はやはりある。それは「弱さ」でもあり「強さ」にもなり得 るのでしょうが。

2007.01.02

Date: 12月 13th, 2006
Cate: Atushi Sugita

断片

杉田敦

まったく時間が空いてしまいました。この間、近美のオープニングでお会いしましたね。次号のBTに展評が載ります。またお会いした折にご意見をお聞かせく ださい。また、春ぐらいに、以前お話していた、写真についての鼎談というかラウンドテーブルのようなものを、近美の増田さんを交えて行えればと考えていま す。それについても、ご相談させてください。このような本来私信でご連絡すべきことをオープンにお伝えするのは、そうすることで怠惰な状態から抜け出すこ とができればと考えてのものだとご理解いただければと思います。

手前味噌になりますが、11月にart & river bankで開催した小山陽子の”she, sheep”は、実に面白い展覧会だったと思います。竹内さんにもぜひ見てもらいたかったです。こうした若い作家にはもちろん不勉強な部分も少なくないの ですが、それを補ってあまりある大胆さがあります。しかし、そういう部分は脆いものです。確かに、興味深いものはもう少しボリュームを見てみたいとも思う のですが、そう要求することが、むしろ大胆さを奪うことにもなりかねません。このタイプのもののボリュームをそろえてみれば、と言うような安直な助言をす ることは当然はばかられます。

近美の展示に戻りましょう。僕はあそこで、結構無防備な姿勢で参加していた伊奈英次について考えさせられました。その姿勢を、若い作家のいろいろ な試行錯誤と分け隔てるものは何なのか。つまり、人生のある一定の生物学的年齢を想定して、その時期の活動に特別なレッテル(賞)を与えることの意味とは 何なのか。と言うことです。あまり余分な条件を抜きにして、瑞々しい試みをただ面白いと素直に語れることを忘れてはならないと言うことでしょうか。

まったく取り留めなくてすみません。でも、こんな感じでこの年が終わりそうです。つい数日前に、大学の学生たちと企画した下町の商店街での展覧会 が終わりました。いろいろ考えさせられ、そして学ぶことも多く、そしてとても楽しい展覧会でした。その余韻が、収拾つかないものをそのまま記してもいいと 勧めてくれているような気がします。

2006.12.13

Date: 10月 23rd, 2006
Cate: Mariko takeuchi

たどり着く家

竹内万里子

マニフェスタ6の中止については、両者の話し合いの場が法廷へと移されたということをホームページで読みましたが、その後の動きは把握できていません。で すから何かを知ったかのように話すことはもちろん許されないのですが、あえて直感的な物言いをするならば、「アート」が思い描いていた「現実」はそんなも のでない、はるかに根深い脅威なのだとということを、改めて思い知らせる出来事であったようにも思います。信じること、想像すること、問いかけること、そ うした小さな抵抗が、利用する/される以前に、その指先の一振りで吹き飛んでしまうような。

先日、戦時中の写真雑誌を少しまとめて見る機会があり、戦時色がどれほど濃くなろうともアマチュア層の投稿写真がほとんど変わることがなく奨励され続けら れていたことに今さらながら驚きを覚えました。何もなかったかのように(いや何かがあったからだということもできるかもしれませんが)、延々と繰り返され る穏やかな生活の記録や表現への憧れ。その隣には明らかにそれとわかるプロパガンダ記事が並んでいる。ここで責任の所在を云々する気はありませんが、ただ そのような行為が今日もなお表情を変えることなく続けられ、奨励され、「良いこと」とされている(もちろん経済的に社会を支えてもいる)ことに、写真をめ ぐるあらゆる問題の根深さを痛感します。基本的な構造は今も昔も変わらないわけです。

杉田さんがおっしゃるように、忍耐深くあること、忍耐深く家へたどり着くことの重要性、そして自分がその忍耐強さの一端ももち得ていないことを深く実感し ます。そうである限り、自分の言葉もまた一部の無邪気な写真たちと同じように、時代の力に加担してしまうでしょう。ただし私は、たどり着くべき家、それす らまだ手にしていないのかもしれません。

2006.10.23

Date: 8月 17th, 2006
Cate: Atushi Sugita

自省を忘れて

杉田敦

時間が空いてしまいました。本当は、すぐに返答しようと思っていたのですが、いろいろな理由でそれができないうちに、時間ばかりが過ぎてしまいました。し かし、時間が経ってみてから考えると、あのときすぐに返事しなくてよかったと思えるところもあります。だらだら過ごしていても、何かを学んでいるというこ となのかな?

年末に出かけようと思っていたManifesta 6が中止になりました。美術学校という形態で行われるということ、それと最後の分断都市であるニコシア開催ということで期待が大きくなっていただけに残念 です。最初聞いたときは、レバノン空爆が原因だと思ったのですがそうではなかったようです。ドクメンタ11で、ワリッド・ラードというレバノン出身のアー ティストが、架空の資料でレバノン内戦の悲惨さと、メディアや歴史というものの欺瞞性を同時に暴いて見せたその場所で、空爆がつい先日まで続いていまし た。こうしたアクチュアルな問題を目の当たりにすると、PCという姿勢を様式としてではなく実践として身につけようとしていた現代美術も無力感に包まれざ るをえません。けれども、もちろん大切なのは、その無力感に包まれ続けることではないはずです。たとえそれが正確な分析や判断によるものであっても、それ でもそこから一歩も二歩も踏み出すべきであるはずです。

1日早く帰国したおかげで、テロによる空路の乱れに巻き込まれることはありませんでした。9.11の1年後、エール・フランスの乗務員がストを決 行し、何にも知らずに飲んだくれていたため、空港で酷い目にあったことが思い出されます。今回の空港の混乱を伝えるニュースに登場するうんざりした旅行者 の表情には同情とともに共感を覚えます。すべてを投げ出してしまいたくなっているはずです。それでも、彼らは忍耐強くそこで最善の道を探し、そしてやがて 家に辿り着くはずです。彼や彼女が行っている忍耐や努力を、自身を含めてなんらかのかたちで表現する人間は見習うべきなのでしょう。無力感に包まれている ことが、どれだけ怠惰なことなのか、うんざりする旅行者たちの表情は教えてくれているような気がします。

いずれにしても行動すること、ということでしょうか。といっても、これだけ時間を空けてしまっておいて、言える言葉ではないのですが……。自省を忘れて、書き記します。

2006.08.17